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見守るつもりでそうなっていない人の特徴

人を育てる立場にいる人にとって、
その人を見守る、ということは、
とても大事なことだと考えている
人も多いでしょう。

しかし、見守っているつもりでいても、
結果的にそうなっていない人も、少なく
ありません。

せっかく見守っていても、相手に煙た
がられたり、うるさがられてしまった、
という経験のある方もいらっしゃるで
しょう。

かく言う私も、過去においてはかなりの
確率で、煙たがられておりました。

今、その時の自分を振り返ってみると、
実は、

 ★ 見守っているつもりで、見張っていた

んですよね。

「相手のことを想いながら、相手を見る」

という点においては、同じことなのに、
「見守る」と「見張る」では、意味の
ニュアンスが全く異なります。

しかし、具体的に、何が違うのか。

特に、自分のやっていることが、
見守っているのか、見張っているのか、
どうすれば見分けることが出来るのか。

私が考える見分け方は、

 ■ 相手の行動をコントロールしようと
   考えているときは見張っているサイン

としています。

それは止めろ、とか、こうしろ、という
事ばかりを言う、または言いたくなる、
という状態。

これが見張る、という状態ではないか、と。

なぜなら、見張る、という行為のベースに
ある、相手への気持ちは「不信」だから。

意識的にしろ、無意識的にしろ、相手に
対して、何らかの不信があるから、相手の
言動をコントロールしたがるようになる。

何か間違ったことをしないだろうか、
とんでもない事をやらかさないだろうか、

という気持ちを常に大きく抱きながら、
相手を見続けている状態は、まさに
「見張っている」という状態に他なら
ないでしょう。

では、見守る、という状態はどうか。
私が考えるに、

 ★ 相手の考えや行動を、タイミング良く
   支援しようとする心の姿勢

だといえるのではないかな、と。

見張る、と違い、見守る行為のベースには
相手に対する信頼があります。

可能性に対して、成長に対して、信頼する
気持ちがある状態。

そして、その可能性を、成長を、後押し
する気持ちで相手を見続けている状態。

これが「見守る」ということになります。

これ、見張られる側、見守る側に廻って
考えてみると、この違いと影響が、よく
解ると思います。

もし、見張られているとしたらどうなるか。

何かをしようとしたときに、それはダメだ
と止められる。

何かをしているときに、もっとこうしろ、
と強制・矯正される。

そういうことをやられ続けると、しんどく
ありませんか?

しかも、見張る人って、その人が良い方向
に向かって行動しているときには、特に
何も言わないケースも多いんですよね。

ダメなときだけ口を出し、良いときは
なんのコメントもしない。

そういう接し方をする人が上の立場から
自分に関わってくると、単なる圧迫感
しか感じられません。

逆に、相手の成長を信じて見守る人は、
成長につながる動きが出たときほど、
サポータブルな言動をとります。

そして、成長につながらない行動を
取ろうとした場合も、頭ごなしのダメ
出しにはなりません。

間違いに気付く体験を奪わないように
あえて口出しをしない、という選択も
取ることがありますし、口出しをするに
しても、より相手に届く様な伝え方を
工夫しようという意識が働きます。

こうした、アプローチの変化は、その
手法を知っているかどうか、ということ
以上に、その人のベースに、不信があるか、
信頼があるか、という事にかかってくる
と、私は考えています。

ですので、もしあなたが、育てる人を
抱えていて、その人を見守ろうとして
いるとしたら、今一度、自分のベースに
相手への信頼があるかどうか、普段の
言動も含めて振り返ってみて下さいね。

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