考えるということは、結構大切なことであります。
しかし、適切な回答を得るために考えるつもりならば、
その考えのベースとなるモノを、きちんと整えて
おかなければいけません。
その考えのベースになるモノとは、
★ 自分が持っている前提条件
です。
考える、とは、その前提条件を元に行われるのですから、
同じ出来事、現象、テーマを考えるとしても、前提条件が
違ってしまったら、全く違う回答となってしまうのは、
当たり前ですよね。
しかし、かなりの数の人が、自分の理想的な答えを
導き出すために必要な前提条件を、
「こんな前提条件なんか信じられない!」
といって拒絶してしまい、間違った前提条件で物事を
考えようとしてしまいます。
これを、ちょっと別の世界で例えてみましょう。
たとえば、数学の世界では、この前提条件を「公理」という
言い方をします。
「公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだす
ための前提として導入される最も基本的な仮定のこと
である(ウィキペディアより)」
ここで注目しておくべき言葉は、「仮定」というもの。
これは、あくまでも真実である、ということではなく、
こういう前提条件で考えようね、というお約束事なんですね。
そんな公理のひとつの例として、
「どんなものも含まないような集合(空集合)が存在する」
というのがあります。
こういった仮定に基づいた前提条件があり、これに基づいて
考えていきましょうね、ということですね。
だから、この公理に対して、
「どんなものも含まないような集合なんてあるのか?」
とか、
「どんなものも含まないような集合があるなんて思えません!」
と、いくらあなたが言ってこの公理を拒絶してしまうと、
まともな答えなど返ってくることはないのです。
つまり、数学で言う公理と同じく、あなたの人生を築いていく
にあたっての前提条件も、あなたが納得できるかどうかは脇に置き、
★ そうである、という前提条件をぶらさずに考える
ことが重要なのです。
そして、世の中にはたくさんの、
★ あなたがそうとは思えないような前提条件を提唱する人
がいて、こういう前提条件で生きてみな、と言ってきてくれています。
例えば、
■ あなたはすでに幸せである
などという前提条件を受け入れてみろ、
と言ってくる人がいたときに、
「自分がすでに幸せだなんてことがあるのか?」
とか、
「自分がすでに幸せであるだなんて思えません!」
などと言って、感情的にその前提条件を拒絶すると、
その前提条件によって得られる幸せに近づく答えは、
まず絶対に手に入らないでしょう。
だから、もしあなたが、自分の人生を変えたいのならば、
今の自分がそうとは思えないような前提条件を受け入れた
うえで、あなた自身がどう思うかどうかは脇に置いて、
その前提条件に基づいて、生き、考え、行動してみる
ことが必要なのです。
そうしていくうちに、その前提条件に見合った回答が、
自ずと導き出されてくるのですから。
もう一度言いますが、今後ろ向きの気持ちでいる人が、
自分の人生を、良い方向に導いてくれる前提条件を、
腹から納得し、理解した上で受け入れようとしても、
多分無理でしょう。
にもかかわらず、いつまでも変わらないまま、うじうじと
変われない自分を呪ったり、変われないと泣き言をたれ、
間違った前提条件を握りしめながら、納得できる答えを
探し回り続けるって、実に虚しい行為なんですよ。
だからもう、そういう人は、いつまでもそんなことを
していないで、納得できないこと、理解出来ないことこそ、
前提条件として受け入れてみましょう。
例えば、自分はすでに幸せである,という前提条件とか。
例えば、自分は素晴らしい人間である,という前提条件とか。
こんな前提条件を、抵抗せずに受け入れて、その前提に基づいて
生きてみることにチャレンジしてみましょう。
短期間でガラッと変わることが出来た人たちは、
みんなこうやって受け入れがたい前提条件を、
納得できなくても、歯を食いしばって受け入れた
うえで、その前提で生きていく、ということに
取り組んできているのですから。
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