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私のサラリーマン物語 ~初めての就職~

おはようございます。
水野です。

さて今日は、新しい趣向でお話したいと思います。
では、早速参りましょう!
 
 
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  ● 思わず昔を懐かしんでしまったニュース
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さっき、ネットのニュース記事を見ていたら、こんな
ものを見つけました。
【面接官の心をつかむ「退職理由」は?】
 → http://goo.gl/sw01
どうやら、転職をする場合、前の会社をなぜ辞めたのか、
という質問に対して、悩む人が多いようです。
確かに、会社を辞めると言うことは、その人が会社から
切られたか、もしくはその人が会社を切ったかの、いずれか。
どちらにとっても、これから採用をしようとする会社にとっては
今後はあって欲しくないことでしょうから、しっかりと確認
しておきたくなるのも、当然のことでしょう。
ということで、この件について、20~30代の間に4社転職して
渡り歩いた経験のある私が、何かお話しできることがないかと
考えて見たんですよ。
でも、色々と考えたところ、単に前の会社を退職した理由を
語るだけじゃなく、せっかくなら、どんな風に会社に入り、
そしてどんな風に勤め、そしてどのようにやめていったのかを
時間軸にそって語ってみようと思い立ちました。
ということで、これからしばらく、私のサラリーマン物語として、
お話ししてみたいと思います。
 
 


━━━━━
  ● 私のサラリーマン物語 ~初めての就職~
─────
私の社会人第一歩は、映像制作会社での営業マンでした。
映画監督を目指し、映像制作の専門学校に通ったものの、
クラスメートのぶっ飛んだ映像感性について行けず、早々に
才能なしと諦め、いわゆるプロデューサーに転向しました。
プロデューサーという仕事は、芸術というよりも、外部との
交渉やスケジュールや予算の管理と、ビジネスに寄った仕事
が多かったのでしたが、その経験から、ビジネスというものに
関心を持ったのもこの頃。
そんなとき、専門学校の学長の友人が経営している会社の社長が
生徒を自社にスカウトしたいとやってきました。
その会社は、企業映像を専門に制作している会社。
要するに、展示会やイベントで流れる映像や、社内の
教育ビデオといった、マスメディアには流れない映像を
企業からの依頼で作る会社なんです。
こういう会社は珍しいそうで、当時はこの会社以外、
大阪に一社あるだけでした。
企業との取引がメインになる、ということで、
ビジネス方面に関心のあった私は、大いに興味を
示し、会社説明会のときにも、色々質問をさせて
もらい、
 「よし、この会社でお世話になろう!」
と決めたのでした。
そして、面接。
会社側としては、映像制作の専門学校にいたのだから、
当然、作品を作る制作部を希望するものと思っていた
ようです。
しかし、私は、将来的には監督になんかなれないと
思っていましたし、むしろ、映像制作よりも、企業と
お付き合いができることを期待していましたので、
営業部の配属をお願いしました。
やや驚かれたものの、在学時代の活動を説明したり、
何に興味を持ってこの会社を選んだのかを話したところ、
分かって下さったようで、最終的に「プロデューサー」
という肩書きで、営業部に配属されることとなりました。
採用が決まったのは、1988年の11月。
普通なら、卒業を待って就職、ということになるのですが、
私が通っていた学校は、学校法人でもなかったせいか、
せっかくなら、出席扱いにしてやるから、働きに出ても
良いぞ、といわれ、私自身も早く働きたかったので、
それならばということで、すぐに働き始めることとしました。
さて、これから色々と教わって、活躍するぞ! と思い、
胸躍らせて働き始めましたが、やはり現実は厳しい。
上司がきちんと張り付いて教えてくれるどころか、
最初の仕事は、地方で開催されるいイベント立ち会い
というものでした。
会社で作った16ミリフィルムを、各地の会場に運び、
もし何かあったら対応する、という仕事。
要するに、会社側としては、相手企業の手前、誰か
社員がそこにいないといけないが、人件費の高い
人間に行かせるのはもったいない、という訳。
ということで、学校を中途半端に出て、見習いで入ってきた
私に、白羽の矢が立った、という訳です。
ということで、その日以来、私はしばらくの間、
16ミリフィルムを持って、各地を渡り歩くことと
なりました。
出張中は実に孤独でした。
しかも、社会人として慣れていなかったせいか、相手企業の
担当者からも「なんだこいつは?」的な目で見られてしまい、
ほとんど相手にされませんでした。
さらに、初日の仕事が終わって、会社に電話を入れると、
「遠距離の電話代がもったいないからかけてくるな」
と言われましたし、イベントのスケジュールが2日ほど
空いたときも、
「返ってきてまた移動だと、ホテル代より交通費の方が
 大変だからそのままそっちにいろ」
と言われる始末。
しばらくして東京に帰ってきても、また数日後には、
地方をひとりで飛び回る生活。
胸躍らせて社会に出たのに、連絡も絶たれた状態で、
見知らぬ街で過ごすことが多くなってしまった状態。
そんな中、年が変わって1989年の1月7日。
私は、出張先のホテルで、昭和天皇の崩御のニュースを
見ながら、ここで昭和が終わり、新たな時代を迎えたのと
同様に、私自身もまた、学生時代が終わり、これからは
社会人として未知の時代を生きていかねばならないのだと
気づいたのです。
当時24歳。普通に比べ、やや遅すぎの社会人デビュー
の私は、遅まきながら、学生と社会の境界線を越えた
自覚を、このときに持ったのでありました。
 

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