自己成長大好き、自己啓発大好き、という人の多くが、
■ 自分の醜い部分を無くそうとする
努力をします。
その心意気や良し、とも思えるんですが、無くそうと頑張る人ほど、その思いとは裏腹に、醜い部分が無くならないようです。
それどころか、さらにその醜さに拍車がかかってしまう人も少なくありません。
私も一時は、そのジレンマに陥り、状況を悪化させたことが何度もありました。
いったいなぜこうなるのか?
かなり悩んでいたのですが、最近、ようやく、こういうことかなぁ、ということが判ってきました。
どういうことかというと、人間というモノは、例えて言うのならば、
■ 泥水が入ったコップのようなもの
なんですね。
泥水は、泥の部分と水の部分があり、それぞれが、人間の美しい部分と醜い部分を表します。
普通の人はもちろんのこと、どんなに立派な人間であっても、その内側には、美しい部分と醜い部分の両方が、必ずあります。
そして、残念ながら、醜い部分だけを取り除くことは、決して出来ないんですよね。
しかし、自己成長を願う人たちのほとんどは、この醜い泥の部分を取り除こうとして、泥水の中に手を入れて引っかき回してしまうんです。
すると、当然のことながら、泥は水に溶けて水は濁ってしまいます。
それでも取り除こうと、引っかき回せば回すほど、泥水はいよいよ濁りを増し、水に溶けた泥は、全く掻き出すことが出来ない状態になってしまうんですよね。
つまりこれは、自分の醜さが、常に表に出てしまっている状態で、悪い部分ばかりが自分にも人にも目立ってしまう事になるわけです。
では、悪いところが目立たない、立派な人というのはいったいどうしているのか。
彼らはまず、自分の醜い部分を否定せず、きちんと受け入れています。
ヘタにあらがわず、否定したりもせず、自分の内にある醜い心を、しっかりと自分のものであると受け入れているんですよね。
その上で、自分自身の素晴らしさも、充分に認めている。
自分の内にある醜さに振り回されて自己嫌悪に陥らず、自分の持つ素晴らしさも、充分に受け入れている。
かといって、素晴らしさばかりに意識を向けて、自分の内にある醜さを否定する、などということもしないわけです。
要するに、自分の内には、醜さもある、美しさもある、とただただ受け入れているんです。
その上で、心穏やかに、平穏な心境で日々を過ごすことに努めます。
すると、どうなるかというと、醜い部分が表に出ないようになり、美しい部分だけが表に出てくるようになるんですよ。
それはまるで、コップに入った泥水を静かに安置させると、醜い泥の部分は静かにコップの底に沈み、キレイな澄んだ水が、上の方に浮いてくるかのごとく。
そうやって、醜さを受け入れながらも、その醜さに引きずられず、自分が持つ美しさを活かして、生きているんですよね。
つまり、立派な人も、普通の人も、人としての中身は同じ。
違うのは、
★ 自分の内にある醜さと美しさを、ありのままに受け入れている
ということと、
★ 心を騒がせず、平穏にすることに努めている
ことだけなんですよね。
それに気付いてから、私も心の平穏を心掛けるよう、毎朝瞑想をしたり、人と会う前には、まず穏やかな気持ちで接しようとリハーサルをするようにしました。
すると、以前と比べて、格段に醜い自分が顔を出すことが無くなり、余計なストレスや、不快な感情を感じることが少なくなったんですよね。
まあ、これを始めてまだ間もないもんですから、ちょっとでも刺激的な出来事に遭ってしまうと、すぐに心がざわついて、あっという間に、心が濁った泥水のようになってしまうことも多々ありますが(汗)
ということで、もしあなたが、自分の醜さを無くそうと頑張って、上手くいかずに悩んでいるとしたら、是非この考え方を採用して下さい。
きっと、心が軽くなって、今までよりも自分の醜さが影を潜め、気持ちの良い生き方が、出来るようになりますよ。
この記事へのコメントはありません。