世の中には、識者が語る、相反する言葉が巷に溢れています。
例えば、「逃げる」と言うことについても、「逃げてもいい」と語る識者もいれば、「逃げてはいけない」と語る識者もいます。
そして、その言葉を「識者が語るから」と極端に真に受けてしまい「逃げてもいい原理主義者」や「逃げてはいけない原理主義者」になってしまう人が、世の中には結構います。
彼らは、「逃げる」という言葉に対して、冷静になれないような感情エネルギーが張り付いているようで、その感情の強さゆえに、逃げることの冷静な判断が出来ません。
でも、冷静に考えてみれば、あらゆることから逃げてていたら、または、あらゆることから逃げなかったら、人の人生はおかしくなってしまいますよね。
そもそも、逃げる、という行為に良いも悪いもなく、場の状況を鑑みて、その都度落ち着いて判断しながら、逃げたり逃げなかったりする、ってことが大事なのは、もう当たり前の話でしょう。
だから、両原理主義者の人たちは、非常に人生が生きずラクナってしまい、それで悩んでいる、という方も少なくありません。
識者は、そんな悩み苦しむ原理主義者の人たちのために、「逃げてもいい」「逃げてはいけない」という言葉を贈ります。
いつでも逃げようとする「逃げてもいい原理主義者」には、「逃げてはいけない」という言葉を、
いつでも逃げずに立ち向かおうとする、「逃げてはいけない原理主義者」の人には、「逃げてもいい」という言葉を、
識者は送り届けようとしているわけです。
しかし、残念なことに、これらの言葉は、本来届いて欲しいところに届かないんですよねぇ。
識者が想いを込めて語った、この言葉が世に送り出されると、必ずと言っていいほど、
「逃げてもいい原理主義者」のところに、「逃げてもいい」という言葉が、
「逃げてはいけない原理主義者」のところに、「逃げてはいけない」という言葉が、
届いてしまうんですよね。
そして、
「識者の○○さんもこう言っているのだから、私の考えは正しい!」
と、さらに自分の原理主義を強固なものにしていってしまうのです。
これでは、識者も浮かばれませんよねぇ。
なので、もし、あなたがどちらかの原理主義者である、という自覚があり、そして今、自分の人生が思うように言っていなかったとしたら、今あなたに心地よく届いている言葉の、反対側にある、心地悪い言葉を受け取ってみて下さい。
これは別に、逃げという言葉だけについて言えるのではなく、全てに対して言えることですが、
人生に上手く行かなくて悩んでいるあなたの人生を、劇的に変えてくれる識者の言葉は、今のあなたにとって耳当たりのいい、心地よい言葉ではなく、非常に耳障りの悪い、居心地の悪い言葉なんですよね。
識者の言葉を、その場しのぎの一服の清涼剤として使うか、それとも、良薬のように、苦くともそれを飲み込み、自分の人生を変えていくものとして使うか。
識者の、耳当たりのいい言葉に、または、耳障りの悪い言葉に触れたとき、是非このお話を思いだして、その言葉をどう取り入れるのか、考えてみて下さいね。
- 人生を変えたければ、居心地良く聞こえる識者の言葉ではなく居心地悪く聞こえる識者の言葉を選ぼう
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